武田晴信は決断に迫られた。前回の戦いまでには正直なかったことだ。
何故なら板垣・甘利の両職が、いつも軍議の前に意見調整をしていたからである。
それがこの戦いでは出来なくなったのだ。いくら両職が慎重論を唱えても、多くの家臣が強硬派に傾いてる。
志賀・小田井原合戦で生まれた格差問題が、塩田城の強行派となる。小田井原で戦った連中は乱取し放題(上杉軍の負け方も無惨過ぎたが)であり、志賀城を落とした連中はいくら活躍しても山分けだった。
板垣らが強行論を抑えようとすればするほど、彼らは更に強行になり、終いにはここで村上義清を倒せという、意見を先走らせているのだ。
武田領内の社会不満は、もはや軍首脳部では抑えられない所まできてしまっている。
強行派の殆どの武将が、そのタイプだ。
強行派にならないと、下々からなにを言われるか分からない。
信用を落とされ、下克上されるのが恐いのだ。それに天文十年のクーデターのきっかけとなった、徳政一揆も恐いのだ。
更に言えば、その徳政一揆に時に板垣らが抱いたのが、加賀一向一揆の再来である。
武田家が加賀守護富樫氏の二の舞になっては、武士の大恥・為政者の大恥なのだ。
百姓の持ちたる国という栄誉は、裏を返せばそういう事なのだ。
ただ、今の晴信自身がそこまで考えていない。晴信の頭にあるのは、諏訪大明神を愚弄する村上を退治する事であり、御柱祭を邪魔する塩田城の福沢対峙であり、軍事権限の高い両職に対して、総大将の自分にこそ権限を高めろという、当主就任後からのフラストレーションの爆発である。
だから、強行こそ武田家の危機だというところまで考えているのは、板垣・甘利の二人だけなのだ。
強行派と慎重派が五対五に割れている。意思統一させるには最も難しい、軍議であってはいけない状況だ。
晴信はついに言葉を発した。
「火攻めを行う。直ちに準備しろ!」
これに教来石・秋山・工藤らが立ち上がり、
「おう!」
と拳を挙げて、早速準備に入った。
板垣・甘利は目をつむって、残念がった。
勘助は、鳥肌が出ていた。
(さて、どうするか…。)
失敗ならそれでいい。成功しても燃え盛る炎を、人間が制する事など不可能だ。
程よく塩田城を燃やせれば良いのだが、燃えすぎて周囲の山や野原にまで燃え広がる危険もあるのだ。
塩田を支配のに、そこまで被害を出してどうする?それでは塩田の領民の反感を植え付けるだけだ。
それで武田が支配しても、収穫前後には村上に足元をすくわれるだけだ。
勘助の考える事は、ひとつだった。
| ●●● お知らせ |
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これは戦国武将小笠原長時が愛した「小笠原牡丹」です。 5月中旬が見ごろ!純白がとても綺麗な花です♪ 16日にこれを写メしに、松本まで行きました。 |
2009年07月06日
2009年07月03日
品第1204:決断しろ!(第25章3節「二月八日」5)
「武田家歴代の方達が、作戦論議に火花を出してる時に、余所者の某が、何をお話すれば良いのでしょうか?」
余所者の勘助が軍議の場にいるのは、特別な措置なのだ。
天文十四年の駿東侵攻の恩賞で、武田家分家の安達遠江守の系図を貰って、紙の上の系図上では、譜代家臣待遇を受けたから、それで軍議の参加権を得たためだ。
武田家の軍議は、御旗・楯無の下で当主晴信を中心に、親族・譜代衆が固まって執り行うスタイルである。
だから他の、小畠・原・横田・多田・真田などの他国者は、この場に参加出来ない。
ここにいる親族・譜代の連中がここで決めた作戦を、ただこなすだけなのだ。
勘助は更に言う。
「確かに教来石殿の申す様に、先年の合戦で出来た格差の問題が、瀬沢以来の足軽雑兵達の不満が爆発しそうで、恐いです。しかし、板垣殿たちに意見のほうに正論があります!」
と述べた。これに慎重派の皆が「そうだ」と頷いた。しかし勘助は表情を厳しく持ちながら、反論もする。
「しかしそれがたとえ正論でも、下々に支持されないものであるならば、作戦として全く通用しません。どちらを取るかは、某ではなく、御館様次第です。」
そう言われると強硬派からも慎重派からも、一体どっちの味方だとして、勘助は罵倒を受けてしまった。
強硬派からしたら、
「ワシらの作戦が誤りとは、失礼至極!」
と罵倒されたり、慎重派からは、
「正しければ、強行すればいいではないか!」
と勘助は軟弱と罵られた。
勘助は慣れてるとはいえ、苛められるのは心身共に堪える。
そうなれば、意見を求めさせた晴信も、責任を感じないとならない。
決断しろ!勘助の視線は、非難を浴びせている重役達ではなく、晴信ただ一点だ。
(間違いでも構わん。ここで何より一番大事なのは、御館様が意を決することなのじゃ!)
勘助は、目力で訴える。
晴信もそういうのには敏感な男なので、具体的には分からなくても、自分が決断しないと勘助の武田家での立場を失っていくのは、感じ取ったのだ。
勘助は城作りの名人だ。彼がいないと信濃統一という「攻め」の目標は達成できても、その後の「守る」為の統治が駄目になる。
信濃国で、武田が新しい支配をするのならば、その政庁城も、武田独自の色を出さなければ、信濃国民全てにアピールが出来ない。
勘助は、その為の存在だ。
彼の武田家家臣としての立場を落とすことが、信濃一和の土台が崩れるという事を、晴信はあの大事な分家の家計図を恩賞として渡した事で、熟知してるはずなのだ。
余所者の勘助が軍議の場にいるのは、特別な措置なのだ。
天文十四年の駿東侵攻の恩賞で、武田家分家の安達遠江守の系図を貰って、紙の上の系図上では、譜代家臣待遇を受けたから、それで軍議の参加権を得たためだ。
武田家の軍議は、御旗・楯無の下で当主晴信を中心に、親族・譜代衆が固まって執り行うスタイルである。
だから他の、小畠・原・横田・多田・真田などの他国者は、この場に参加出来ない。
ここにいる親族・譜代の連中がここで決めた作戦を、ただこなすだけなのだ。
勘助は更に言う。
「確かに教来石殿の申す様に、先年の合戦で出来た格差の問題が、瀬沢以来の足軽雑兵達の不満が爆発しそうで、恐いです。しかし、板垣殿たちに意見のほうに正論があります!」
と述べた。これに慎重派の皆が「そうだ」と頷いた。しかし勘助は表情を厳しく持ちながら、反論もする。
「しかしそれがたとえ正論でも、下々に支持されないものであるならば、作戦として全く通用しません。どちらを取るかは、某ではなく、御館様次第です。」
そう言われると強硬派からも慎重派からも、一体どっちの味方だとして、勘助は罵倒を受けてしまった。
強硬派からしたら、
「ワシらの作戦が誤りとは、失礼至極!」
と罵倒されたり、慎重派からは、
「正しければ、強行すればいいではないか!」
と勘助は軟弱と罵られた。
勘助は慣れてるとはいえ、苛められるのは心身共に堪える。
そうなれば、意見を求めさせた晴信も、責任を感じないとならない。
決断しろ!勘助の視線は、非難を浴びせている重役達ではなく、晴信ただ一点だ。
(間違いでも構わん。ここで何より一番大事なのは、御館様が意を決することなのじゃ!)
勘助は、目力で訴える。
晴信もそういうのには敏感な男なので、具体的には分からなくても、自分が決断しないと勘助の武田家での立場を失っていくのは、感じ取ったのだ。
勘助は城作りの名人だ。彼がいないと信濃統一という「攻め」の目標は達成できても、その後の「守る」為の統治が駄目になる。
信濃国で、武田が新しい支配をするのならば、その政庁城も、武田独自の色を出さなければ、信濃国民全てにアピールが出来ない。
勘助は、その為の存在だ。
彼の武田家家臣としての立場を落とすことが、信濃一和の土台が崩れるという事を、晴信はあの大事な分家の家計図を恩賞として渡した事で、熟知してるはずなのだ。
2009年07月02日
品第1203:火攻め(第25章3節「二月八日」4)
塩田城を攻める武田軍は、あれ依頼どうしても大手門を落とせないで、やきもきしている。福沢勢の必死の守備のせいだ。
日にちはいたずらに過ぎていく。
二月九日、久々に朝が凍えるように寒い。新暦に直せば三月の二十一日になる。
それに、意外と風向きが北風だ。
勘助はそれを逃さない。
「火攻めにしたら、面白いかもしれないな。」
とぼやくが、この意見は隠した。
何故なら、板垣・甘利らの消極派の猛反発を出すし、勘助自体、その信方のおかげで武田家に仕官できたという義理もあるからだ。
(きっと誰かが言うであろう…。)
とも思っていた。
そして朝の定例軍議が、寺の本堂で始まる。
末席の勘助は、暫く言葉を控えた。
勘助の思った事は、若手の教来石景政が声高に言い出した。
「武田軍は風上、敵は風下、風は寒い空っ風。まさに火攻めにすれば、敵も一網打尽です!」
これに若手の強硬派は、立ち上がって賛成した。しかしやはり、板垣と甘利らの宿老達は慎重だ。
「火は、どう進むか分からない。失敗ならまだしも、予想以上に燃え広がったら、味方も混乱する!」
「そうじゃ。やるには燃やす必要のない場所の木々を伐採して、それを未然に防いでからでないと駄目だ。」
「敵の後詰が来るまでに、その準備が出来るのか?」
しかし景政は反発する。
「敵は諏訪大明神を愚弄する連中です!」
これに他の若手も続く。
「大手を攻めるものは、破れるきっかけを欲しがってる。火攻めはうってつけじゃ!」
「いつまでも慎重論をぐだぐだ言ってると、足軽雑兵共の不満が爆発する。文句があるなら、小田井原の恩賞を分けてくれ!」
慎重派の者達も、塩田城の戦いと小田井原の戦いを摩り替えるなと猛反論する。
勘助はため息をつく。信繁は晴信の意向から強硬派に入って、景政らを弁護してるが、晴信は意を決する事が出来ない。
意見を言いたいが、こんな混乱した論争の中に入りたくない。
しかし以外にも、そんな嫌気を指している勘助の雰囲気を、晴信がただ一人察したのだ。
そして晴信は、遠くの勘助を見て一言。
「山本勘助の意見は、どうなのじゃ?」
と注目する。そうすると、論争が一気にとまり、皆が勘助に注目した。
これでは、話さないとならないではないか。
正直、注目して欲しくない。
仕方がない。勘助は口を開いた。
日にちはいたずらに過ぎていく。
二月九日、久々に朝が凍えるように寒い。新暦に直せば三月の二十一日になる。
それに、意外と風向きが北風だ。
勘助はそれを逃さない。
「火攻めにしたら、面白いかもしれないな。」
とぼやくが、この意見は隠した。
何故なら、板垣・甘利らの消極派の猛反発を出すし、勘助自体、その信方のおかげで武田家に仕官できたという義理もあるからだ。
(きっと誰かが言うであろう…。)
とも思っていた。
そして朝の定例軍議が、寺の本堂で始まる。
末席の勘助は、暫く言葉を控えた。
勘助の思った事は、若手の教来石景政が声高に言い出した。
「武田軍は風上、敵は風下、風は寒い空っ風。まさに火攻めにすれば、敵も一網打尽です!」
これに若手の強硬派は、立ち上がって賛成した。しかしやはり、板垣と甘利らの宿老達は慎重だ。
「火は、どう進むか分からない。失敗ならまだしも、予想以上に燃え広がったら、味方も混乱する!」
「そうじゃ。やるには燃やす必要のない場所の木々を伐採して、それを未然に防いでからでないと駄目だ。」
「敵の後詰が来るまでに、その準備が出来るのか?」
しかし景政は反発する。
「敵は諏訪大明神を愚弄する連中です!」
これに他の若手も続く。
「大手を攻めるものは、破れるきっかけを欲しがってる。火攻めはうってつけじゃ!」
「いつまでも慎重論をぐだぐだ言ってると、足軽雑兵共の不満が爆発する。文句があるなら、小田井原の恩賞を分けてくれ!」
慎重派の者達も、塩田城の戦いと小田井原の戦いを摩り替えるなと猛反論する。
勘助はため息をつく。信繁は晴信の意向から強硬派に入って、景政らを弁護してるが、晴信は意を決する事が出来ない。
意見を言いたいが、こんな混乱した論争の中に入りたくない。
しかし以外にも、そんな嫌気を指している勘助の雰囲気を、晴信がただ一人察したのだ。
そして晴信は、遠くの勘助を見て一言。
「山本勘助の意見は、どうなのじゃ?」
と注目する。そうすると、論争が一気にとまり、皆が勘助に注目した。
これでは、話さないとならないではないか。
正直、注目して欲しくない。
仕方がない。勘助は口を開いた。
2009年07月01日
品第1202:秋津の山口入り(第25章3節「二月八日」3)
勘助と左五郎が色々と話してる時、宿場町での戦いは形勢互角だ。
塩田城の福沢勢が、必死になってるからだ。どうしても大手門を攻められない。
その直前でどうしても、足止めされる。
戦闘は昼に一端止め、昼食後はそのまま対峙する事となる。
そして軍議だ。勘助もその中にいる。
結果は対峙のまま、手の空いた部隊が周辺を乱捕りする事となる。
勘助は乱捕りを辞退し、自陣に戻る。
「そういえば、秋津はどうしてるかな?」
越後に行く為に、いったん山口に戻るというところまでは知っている。
その秋津は、この日に防府から山口に到着した。西国随一の繁栄を極めたこの都市が、秋津は好きだ。
民衆も温厚で、町も情緒溢れている。ここではもう梅の季節で、築山館や瑠璃光寺などは、花景色に溶け込んでいて、さぞかし美しいであろう。
しかし秋津の見た山口は、重苦しかった。
いや風景は変わらない。変わったのは、武士から乞食まで、人間全部の表情だ。
「どうしたんだろう?」
不思議に感じた秋津は、近くを通り過ぎようとした針売りの商人に尋ねた。
彼の言葉を聴いたとたん、秋津は寒気が走り、鳥肌が出てきた。
「た、タケトーが戻るって、それ何時よ?」
「確か十四日に、大内様と再会されるそうじゃ。ワシら下々の者は、これからどうしたら良いのじゃろうな。くわばらくわばら…。」
二人は肩を落とし、大きなため息を漏らす。
どうやら義隆自身が呼び戻したらしい。
今は未だ山口に来ていないが、触らぬ神に祟りなし、さっさと用事を済ませて、越後に出るしかないと事を急いだ。
秋津は長門屋の屋敷に着いた。
皆が歓迎してくれたが肝心の旦那、孫次郎がいない。
「あれ、親父殿は?」
丁稚が答える。
「ここ数日、重い病で床に伏せてます。」
「えっ?」
「もう峠は越して、落ち着いたのですが、暫く安静が必要だと…。」
どうやら回復に向かっているようで、このまま看病したら全快する。
とはいえ秋津は、看病はしないとならないと思ったが、そうするとあの嫌味な相良武任の顔が思い浮かんでしまう。
(十四日までいないと駄目なのかな…?)
秋津の頭の中では、十四日はエックスデーとなってしまった。
越後入りは少し送れそうだ。勘助に手紙をだそうと、孫次郎と再会の後、筆をとった。
塩田城の福沢勢が、必死になってるからだ。どうしても大手門を攻められない。
その直前でどうしても、足止めされる。
戦闘は昼に一端止め、昼食後はそのまま対峙する事となる。
そして軍議だ。勘助もその中にいる。
結果は対峙のまま、手の空いた部隊が周辺を乱捕りする事となる。
勘助は乱捕りを辞退し、自陣に戻る。
「そういえば、秋津はどうしてるかな?」
越後に行く為に、いったん山口に戻るというところまでは知っている。
その秋津は、この日に防府から山口に到着した。西国随一の繁栄を極めたこの都市が、秋津は好きだ。
民衆も温厚で、町も情緒溢れている。ここではもう梅の季節で、築山館や瑠璃光寺などは、花景色に溶け込んでいて、さぞかし美しいであろう。
しかし秋津の見た山口は、重苦しかった。
いや風景は変わらない。変わったのは、武士から乞食まで、人間全部の表情だ。
「どうしたんだろう?」
不思議に感じた秋津は、近くを通り過ぎようとした針売りの商人に尋ねた。
彼の言葉を聴いたとたん、秋津は寒気が走り、鳥肌が出てきた。
「た、タケトーが戻るって、それ何時よ?」
「確か十四日に、大内様と再会されるそうじゃ。ワシら下々の者は、これからどうしたら良いのじゃろうな。くわばらくわばら…。」
二人は肩を落とし、大きなため息を漏らす。
どうやら義隆自身が呼び戻したらしい。
今は未だ山口に来ていないが、触らぬ神に祟りなし、さっさと用事を済ませて、越後に出るしかないと事を急いだ。
秋津は長門屋の屋敷に着いた。
皆が歓迎してくれたが肝心の旦那、孫次郎がいない。
「あれ、親父殿は?」
丁稚が答える。
「ここ数日、重い病で床に伏せてます。」
「えっ?」
「もう峠は越して、落ち着いたのですが、暫く安静が必要だと…。」
どうやら回復に向かっているようで、このまま看病したら全快する。
とはいえ秋津は、看病はしないとならないと思ったが、そうするとあの嫌味な相良武任の顔が思い浮かんでしまう。
(十四日までいないと駄目なのかな…?)
秋津の頭の中では、十四日はエックスデーとなってしまった。
越後入りは少し送れそうだ。勘助に手紙をだそうと、孫次郎と再会の後、筆をとった。
2009年06月30日
品第1201:いくさの本義を忘れるな!(第25章3節「二月八日」2)
塩田城は、卯の刻から戦闘を始まる。
武田軍は軍勢を入れ替えた。
宿場に入ったのは、飯富虎昌・金丸虎義・南部下野・工藤祐長ら譜代衆だ。
板垣信方の諏訪勢は、急遽こしらえた簡素な諏訪社で朝参りを欠かさない。
ついでに十三日までの帰国も祈願する。
なので戦意の薄い諏訪勢は、殆ど数合わせのようなものだ。これは信方の強い要望でもある。
なのでいくさをしない彼らは、祭りに必要な、御柱を引っ張る為の太い曳綱をせっせとこしらえている。
部隊は藁でいっぱい、木槌で藁を叩く音もすざましい。
山本隊はその諏訪勢の前で待機だ。体を動かしたい連中は、綱作りの手伝いに行ってる。
しかし諫早左五郎は、退屈している。
「畜生、村上の援軍、来ねえかな…?」
と野戦を望んでる。勘助は苦笑いだ。
「おいおい、来ても戦わないからな。」
「えーっ!」
「ワシらは敵の『網』の中でいくさをしてるのじゃぞ。」
「網?」
「この塩田平を取り囲む山を、網と喩えたのじゃ。後ろの城山にいる敵の見張り、そして千曲川を越えた所に砥石城じゃ。」
「ワシら、地引網の中にいるって事ですか?」
「そうだ。」
「魚じゃないんですから、戦って網を破りましょうよ!」
「御館様と村上義清めは、やる気満々じゃからな。でも、駄目だ!」
「えーっ、でも、教来石様や秋山様とか、戦う気満々ですぜ。殿もここで村上の後詰と戦って勝ったら、出世間違いなしですぜ。」
「駄目なものは駄目。たとえ後詰に対処してこの場を離れても、戦わないで鶴翼の陣形で対峙して、御館様が塩田城を落とすまで睨めっこするだけじゃ。」
「えっ?御館様はここに残るのですか?後詰は義清が来るのは間違いないんですぜ。大将同士で正々堂々、やりましょうよ!」
「駄目、甘利殿か板垣殿が大将じゃろう。」
「あのやる気のない諏訪勢でですか?」
「対峙するだけだから、構わんじゃろう。」
「でもまた板垣様甘利様が行くなら、小田井原に行けなかった連中が、黙ってませんぜ。」
「小田井原と塩田を同じ土俵に上げるな。意味も重みも違ういくさなのじゃから、お前はワシの部下ならば、今回は自重せい!」
「は、はーい…。」
「良いか、このいくさの本義は、村上義清を相手にすることではなくて、御柱祭の邪魔をする福沢顕昌に圧力をかける事じゃぞ。これだけは絶対に忘れるな。これがこのいくさの基本じゃからな、分かったな!」
と勘助は、左五郎に念を押させた。
武田軍は軍勢を入れ替えた。
宿場に入ったのは、飯富虎昌・金丸虎義・南部下野・工藤祐長ら譜代衆だ。
板垣信方の諏訪勢は、急遽こしらえた簡素な諏訪社で朝参りを欠かさない。
ついでに十三日までの帰国も祈願する。
なので戦意の薄い諏訪勢は、殆ど数合わせのようなものだ。これは信方の強い要望でもある。
なのでいくさをしない彼らは、祭りに必要な、御柱を引っ張る為の太い曳綱をせっせとこしらえている。
部隊は藁でいっぱい、木槌で藁を叩く音もすざましい。
山本隊はその諏訪勢の前で待機だ。体を動かしたい連中は、綱作りの手伝いに行ってる。
しかし諫早左五郎は、退屈している。
「畜生、村上の援軍、来ねえかな…?」
と野戦を望んでる。勘助は苦笑いだ。
「おいおい、来ても戦わないからな。」
「えーっ!」
「ワシらは敵の『網』の中でいくさをしてるのじゃぞ。」
「網?」
「この塩田平を取り囲む山を、網と喩えたのじゃ。後ろの城山にいる敵の見張り、そして千曲川を越えた所に砥石城じゃ。」
「ワシら、地引網の中にいるって事ですか?」
「そうだ。」
「魚じゃないんですから、戦って網を破りましょうよ!」
「御館様と村上義清めは、やる気満々じゃからな。でも、駄目だ!」
「えーっ、でも、教来石様や秋山様とか、戦う気満々ですぜ。殿もここで村上の後詰と戦って勝ったら、出世間違いなしですぜ。」
「駄目なものは駄目。たとえ後詰に対処してこの場を離れても、戦わないで鶴翼の陣形で対峙して、御館様が塩田城を落とすまで睨めっこするだけじゃ。」
「えっ?御館様はここに残るのですか?後詰は義清が来るのは間違いないんですぜ。大将同士で正々堂々、やりましょうよ!」
「駄目、甘利殿か板垣殿が大将じゃろう。」
「あのやる気のない諏訪勢でですか?」
「対峙するだけだから、構わんじゃろう。」
「でもまた板垣様甘利様が行くなら、小田井原に行けなかった連中が、黙ってませんぜ。」
「小田井原と塩田を同じ土俵に上げるな。意味も重みも違ういくさなのじゃから、お前はワシの部下ならば、今回は自重せい!」
「は、はーい…。」
「良いか、このいくさの本義は、村上義清を相手にすることではなくて、御柱祭の邪魔をする福沢顕昌に圧力をかける事じゃぞ。これだけは絶対に忘れるな。これがこのいくさの基本じゃからな、分かったな!」
と勘助は、左五郎に念を押させた。
2009年06月29日
品第1200:高梨政頼の苦悩(第25章3節「二月八日」1)
善光寺平より北の地域を、俗に北信濃または北信という。
その北信濃でも最も勢力を持ってる国人領主が、中野を拠点とする高梨政頼である。
彼は長尾為景の妹を妻にしているので、景虎にとっても晴景にとっても、親戚なのだ。
今は兵一千を従えて坂城にいる。
七日の夜、晴景から政頼宛に手紙が来た。政頼はそれを呼んで、唖然とする。
「兵を引けじゃと。何をおっしゃるのじゃ!」
昨年志賀城が落とされてから、千曲川・信濃川社会圏の危機が始ったのである。
「晴景様は、武田晴信の恐ろしさが、というより、こね戦いが大塔合戦(信濃南北戦争)の再来だという事が全く分かってない!」
政頼はこの手紙を持って、義清の屋敷に行って正直に話した。
義清は手紙を眺めた。政頼は弁解する。
「ワシは絶対に引かないから、安堵してくだされ。」
義清は政頼の言葉を信じた。政頼は善光寺平以北で最も影響力のある人物だからだ。
「島津や、井上らはどうする?」
「これから説得に行く。ワシにこんな手紙が来たなら、井上・島津・芋川・須田らにも来てると見て、間違いないじゃろう。」
「大丈夫か?奴らはまだこの坂城に来ていないであろう。」
「大丈夫だ。明日一番にワシだけが行く。どっちにしろ、十二日までには必ず戻る。」
「ああ、頼む。」
こうして政頼は、八日の未明に馬を走らせて、先ず塩崎の館から説得に出かけた。
急いだので午前中には塩崎の屋敷に入れた。
しかしここで、政頼は塩崎からとんでもない情報を聞いたのだ。
当然政頼は驚く。
「何じゃと、村上殿に味方したら、晴景さまは軍勢を出して、武田晴信と挟み撃ちにするじゃと!」
これでは明確な、高梨討伐宣言だ。
塩崎みたいな小豪族は、たまったものではない。だから塩崎は、
「何とかしてくれ、高梨殿…。」
援軍に行く気はあるのだ。しかしこれでは川中島や北信の豪族達は、出陣したくても出来ないのだ。
長尾晴景は守護代とはいえ、実力はまさに守護大名クラスだ。しかも足利幕府が守護代でありながらも守護待遇で扱っている厄介さがある。
暗愚とはいえ、晴景の力は強大なのだ。
これ以後、政頼は他の豪族達の屋敷を訪れても、晴景が恐くて行けないという者が多数いた。
彼らは共通して武田の脅威を感じている。だから村上義清の招集には、本音として答えないのだ。でも、晴景の圧力で中立の立場を取らざるを得ない。
高梨のような国人レベルなら、応援に駆けつけられたのだが、結局説得に答えてくれたのは、数氏のみだった。
さすがの政頼も、頭を痛めた。
その北信濃でも最も勢力を持ってる国人領主が、中野を拠点とする高梨政頼である。
彼は長尾為景の妹を妻にしているので、景虎にとっても晴景にとっても、親戚なのだ。
今は兵一千を従えて坂城にいる。
七日の夜、晴景から政頼宛に手紙が来た。政頼はそれを呼んで、唖然とする。
「兵を引けじゃと。何をおっしゃるのじゃ!」
昨年志賀城が落とされてから、千曲川・信濃川社会圏の危機が始ったのである。
「晴景様は、武田晴信の恐ろしさが、というより、こね戦いが大塔合戦(信濃南北戦争)の再来だという事が全く分かってない!」
政頼はこの手紙を持って、義清の屋敷に行って正直に話した。
義清は手紙を眺めた。政頼は弁解する。
「ワシは絶対に引かないから、安堵してくだされ。」
義清は政頼の言葉を信じた。政頼は善光寺平以北で最も影響力のある人物だからだ。
「島津や、井上らはどうする?」
「これから説得に行く。ワシにこんな手紙が来たなら、井上・島津・芋川・須田らにも来てると見て、間違いないじゃろう。」
「大丈夫か?奴らはまだこの坂城に来ていないであろう。」
「大丈夫だ。明日一番にワシだけが行く。どっちにしろ、十二日までには必ず戻る。」
「ああ、頼む。」
こうして政頼は、八日の未明に馬を走らせて、先ず塩崎の館から説得に出かけた。
急いだので午前中には塩崎の屋敷に入れた。
しかしここで、政頼は塩崎からとんでもない情報を聞いたのだ。
当然政頼は驚く。
「何じゃと、村上殿に味方したら、晴景さまは軍勢を出して、武田晴信と挟み撃ちにするじゃと!」
これでは明確な、高梨討伐宣言だ。
塩崎みたいな小豪族は、たまったものではない。だから塩崎は、
「何とかしてくれ、高梨殿…。」
援軍に行く気はあるのだ。しかしこれでは川中島や北信の豪族達は、出陣したくても出来ないのだ。
長尾晴景は守護代とはいえ、実力はまさに守護大名クラスだ。しかも足利幕府が守護代でありながらも守護待遇で扱っている厄介さがある。
暗愚とはいえ、晴景の力は強大なのだ。
これ以後、政頼は他の豪族達の屋敷を訪れても、晴景が恐くて行けないという者が多数いた。
彼らは共通して武田の脅威を感じている。だから村上義清の招集には、本音として答えないのだ。でも、晴景の圧力で中立の立場を取らざるを得ない。
高梨のような国人レベルなら、応援に駆けつけられたのだが、結局説得に答えてくれたのは、数氏のみだった。
さすがの政頼も、頭を痛めた。
2009年06月27日
品第1199:十三日まで(第25章2節「攻撃開始」6)
守護権という問題を、地図上の線で解釈するか、土地の者が築き上げた社会圏で見るか、勘助も諏訪郡の金沢金山で見せた問題だ。
「金沢金山の薪は、殆どが高遠領の藤沢谷のものじゃからな!」
場所が諏訪郡でも、物資は伊那郡から仕入れてきた。境目では必ずある事である。
敵対表明をしたなら、これまで人的物的交流の盛んだった関係が断たれる。
それはその地域の為にならない。
郡レベルなら裁判で片付けられようが、国レベルならそうはいかない。
その国境問題を鎮める為にあるのが幕府なのだが、それは全く機能していない。
だから自分達で解決させないとならない。
武田は正直、守護大名では限界なのだ。
これは小笠原・村上・長尾も同じである。
勘助は軍勢を待機させたのち、坂城に放った忍び達の情報を得た。
「五千か?」
「はい。村上義清は、あと三千は欲しいと漏らしてました。」
「そうか、ならば越後の長尾晴景様には、北信濃にもっと圧力をかけともらわないとな。」
北信濃の豪族達には、出来れば参加して欲しくない。もしくは遅れてほしい。
塩田城がこの戦いで落ちればよいが、そうでなくても武田の圧力が伝われば、それでよい。
何時もならば、確かに思い切り攻めるが、
「今年は御柱じゃからな…。」
と特別なのだ。
無理をさせてはいけない。出来れば遅くても十三日までには和睦し、退却させたい。
十五日に御柱抽籤式があるからだ。
「ここに来ている諏訪勢は、本当なら元日から続けているお参りを中断させて、この戦いに来てるのじゃ。さっさと終わらせて、返さないと…。」
と心配しているのである。しかし勘助や板垣信方のその懸念をよそに、甲州勢の多くはまったく違った解釈を持っている。
「諏訪の軟弱者が!」
祭りをやりたいから、いくさを嫌がる。それは馬鹿げた事だというのが、彼らである。
諏訪にとって御柱祭が、いかに重大イベントかという事を理解していないのだ。
諏訪の民にとっては、神事である。だからこんな所で油を売ってる暇などない、それに御柱年に血を流すと縁起が悪いという言い伝えも信じている。
前回の瀬沢の合戦がそうだ。あれで諏訪勢は大敗して、その年の七月には、諏訪家が滅亡されている、まさに敗者の立場だ。
そして彼らは、勝者の武田と同居してる。
だから言い伝えを余計に信じてしまったし、瀬沢敗戦のトラウマも持っているのだ。
また負ける。そういう恐怖と隣り合わせにしながら、塩田城を見ているのである。
「金沢金山の薪は、殆どが高遠領の藤沢谷のものじゃからな!」
場所が諏訪郡でも、物資は伊那郡から仕入れてきた。境目では必ずある事である。
敵対表明をしたなら、これまで人的物的交流の盛んだった関係が断たれる。
それはその地域の為にならない。
郡レベルなら裁判で片付けられようが、国レベルならそうはいかない。
その国境問題を鎮める為にあるのが幕府なのだが、それは全く機能していない。
だから自分達で解決させないとならない。
武田は正直、守護大名では限界なのだ。
これは小笠原・村上・長尾も同じである。
勘助は軍勢を待機させたのち、坂城に放った忍び達の情報を得た。
「五千か?」
「はい。村上義清は、あと三千は欲しいと漏らしてました。」
「そうか、ならば越後の長尾晴景様には、北信濃にもっと圧力をかけともらわないとな。」
北信濃の豪族達には、出来れば参加して欲しくない。もしくは遅れてほしい。
塩田城がこの戦いで落ちればよいが、そうでなくても武田の圧力が伝われば、それでよい。
何時もならば、確かに思い切り攻めるが、
「今年は御柱じゃからな…。」
と特別なのだ。
無理をさせてはいけない。出来れば遅くても十三日までには和睦し、退却させたい。
十五日に御柱抽籤式があるからだ。
「ここに来ている諏訪勢は、本当なら元日から続けているお参りを中断させて、この戦いに来てるのじゃ。さっさと終わらせて、返さないと…。」
と心配しているのである。しかし勘助や板垣信方のその懸念をよそに、甲州勢の多くはまったく違った解釈を持っている。
「諏訪の軟弱者が!」
祭りをやりたいから、いくさを嫌がる。それは馬鹿げた事だというのが、彼らである。
諏訪にとって御柱祭が、いかに重大イベントかという事を理解していないのだ。
諏訪の民にとっては、神事である。だからこんな所で油を売ってる暇などない、それに御柱年に血を流すと縁起が悪いという言い伝えも信じている。
前回の瀬沢の合戦がそうだ。あれで諏訪勢は大敗して、その年の七月には、諏訪家が滅亡されている、まさに敗者の立場だ。
そして彼らは、勝者の武田と同居してる。
だから言い伝えを余計に信じてしまったし、瀬沢敗戦のトラウマも持っているのだ。
また負ける。そういう恐怖と隣り合わせにしながら、塩田城を見ているのである。






